昭和44年1月20日 朝の御理解
御理解第36節「日本国中のあらゆる神を皆信心するというが、それはあまりの信心じゃ。人にものを頼むにも一人に任すとその人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工をやとうても棟梁がなければならん。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すとすぐおかげが受けられる」
ある旅をする、しておる人が、ある山越えにかかった。ところが途中で一服しておる間に、うとうと眠ってしまった。ところがその、山の中で眠っておる間に、夢を見た。ね、何処何処の八幡様、何処何処のこのお無道さん、何処何処の観音様というような、神様やら仏様が何人もこう集まって、何か話合いをしておられる。
ね、そして、あー、何処何処の何何様じゃないですか。まぁようここで、まぁ皆あったというて、まぁ話しておられる。(せどじょようじ?)ですかっち。ん、実は、何処何処村の、何何の家に病人が出来て、願いに来たから今から行きよるんじゃと。あらあんたもそうですか。実は私もじゃと。いや、そりゃ私も実はそこに行きよるんじゃというて、話し合いをしておる。
そんならこんなに皆そろうて行くことはいるまいから、どうぞあんた行って下さいって。えー、あなた、そげな事いわんで、あんたが行って下さい。というてその、しり比べを仏様やら神様がしておられたという話なんです。
ね、いかにも神信心、いわゆる信心篤いというと、もう何処の何何様でも、まぁ参ったり拝んだりすることが信心かのようにいわれておりますけれども、これではね、おかげは受けられません。
それは、薮神子神の前を通っても一礼をするような心持ちになれと仰る。ね、何処の何何様というて(ほくら?)の前を通っても、やはりそのいわゆる敬神の念というかね。とこう頭を下げていくような心持ち。
それは必要だけれども、何様にも頼み、神様にも頼む。そして何処行ってもどうぞよろしゅうお願いします、よろしゅうお願いしますではです、それこそ物事相談に暮れてはかどらずという事になるのです。これは一つの道理です、ね。
これはね、どういうようなことかというとね、それではね、一心が出らん。その一心を出すとすぐにおかげが受けられると仰るほどの、すぐおかげが受けられるというようなおかげになってこない。
その一心。それなら、その一心とはどういうようなことであろうか。なら私はもう他の何何様もいっちょん拝んだこともなければ、頼んだこともない。もう金光様一本だという人でもです、ならそれが一心かというと、ただそれではない。
ね、ただ一心。ただ金光様だけにお願いしとる。それだけじゃいかん。例えば一心ということは、そういう一つの、もう此の方一心と定めいと仰るから、此の方一心と定めて、同時に一心と定めてすがらにゃいかん。ね、一心と定めてすがる。
同時にこの一心という事はね、どういうことかというと、昨日築水連合会の青年会の、今夜初めての信心研修会がここであった。朝から、朝の9時半から、まぁ私の話しを聞いて、まぁどこ、何時も他所の教会の先生を講師に、まぁやとうて来てもらう訳ですね。けども今年は、当番教会の教会長先生に講師になって頂こうというので、私に依頼があったから、私も引き受けて昨日お話をさせて頂いた。
午後もまた、私を中心にまぁ質疑応答の形をとって、えー、色々質問をしてもらって、それに対して私がお答えをするというような形をとった。
ところが、その中のある教会の青年が、今日のお話を先生頂いておりますと、この朝参りという事を、特に寒修行があっておるから、皆寒修行にでも(出れなさい?)と。ね、真の信心とかは、真【しん】のおかげとかと言うけれど、ね、金光様の信心してから朝参りも出きんようなことでは真の信心が分かろうはずはない。真のおかげが頂けるはずはなかよち。
ね、だから、どうでも朝参りをしなさい。いう話をなさったが、先生朝参りさえすりゃおかげ頂くでしょうかちこういう。しかもそのおかげはどんなおかげでも、願えばおかげ頂くでしょうかと。
そりゃもう絶対おかげ頂くよっち私は申しました。ね、そりゃもう(たいき?)を叩くほどに間違いなくおかげを受けられるよ、て私が。そんなら願いを持たんで、お参りをするという事はどうでしょうかち。そんなら、なおおかげ頂くよち。
なら朝参りさえすりゃおかげ頂くですねて、そうじゃおかげ頂く。ね、その変わりにね、おかげ、おかげを頂くまで、頂きぬく、おかげを頂くまでお参り、お参りせにゃいかんよ、て私が言うんです。これが一心なんです。
そうね、参ったばってんおかげ頂ききらんじゃった。なら、そりゃ例えで言うならおかげが十ものものに、なら八つまでは参ったかもしれん、九分九厘までは参ったかもしれんけれども、九分九厘ではまだ十についとらんのじゃ。
だから一心、私が今日いう一心とはね、おかげを頂き、頂くまでお参りするというのが、お参りするという腹が一心なんです。どんなことがあってもおかげ頂かねば。そのおかげを頂くまでは、お参りをせなければと、お参りをすると定める心が一心なんだ。
ですから、そりゃ参ったけれども、おかげ頂ききらんじゃったというのはね、これはいくら朝参りを1年、例えば続けたところで、それは一心じゃないからおかげが受けられん。ね、一心とはそんなもんだ。
ね、おかげを頂くまで。ね、どんなことがあってもおかげを頂くまで。この一心を出したら、すぐにおかげが受けられる。
ね、そこにきその、ただ今申しますように、何処の何何様、何処の神様、何様も拝みよる、神様も拝みよるといったようなことではと言うことは、私が今言うまぁ笑い話しのような話ですけれども、そのある旅人が見たという夢のそれです。
ね、ここでも、それをそういう意味のことをね、大工をやとうても棟梁というたら一人じゃと。棟梁が何人もおったら、物事相談にくれてはかどらないとこう仰る。何様にも、神様にも頼んだ。神様達が相談し合いござるけんで、その間に死んでしもうたというようなことになってしまうと。ね、これは一つの例え話しですよ。
ね、というて、お道の信心は、あその、何様が悪い、何宗がいけないという事じゃない。ただ(なべて?)天地の親神様の氏子としての見方。またはそれは薮神子神であっても、ね、(石の墓?)の前を通るでも、やはり神様と名が付きゃ、仏様と名が付きゃ、その前を、いわゆる敬神の情というか、ね、そういう一礼をして通るような心がけはどうでも、軽蔑したり、そういうことはいけません。軽く見たりそれはいけません。
ね、一心とは、例えば今私が申しますように、この方一心、もうとにかく金光様。もう家代代から金光様。家はもう金光様(いってんばり?)だからというて、そういう家がならおかげを受けておるかというと、おかげを本当に受けていないという事はです、そりゃ一心じゃあろうけれども、一心にすがりよらん。
ね、朝参りでもするということは、やはり一心を立てなきゃ朝参りは出来はしません。しかもその朝参りがです、昨日のその、青年の方じゃないですけども、参りさえすりゃ先生、おかげ絶対頂くでしょうか。もう絶対だねて私が申しました。
けどもそれをね、辛抱しぬききる信者氏子が、まぁ少ない。そうには参ったばってんおかげ頂ききらんじゃったでしまいしまう。ね、おかげを頂くまではと。というて私は、福岡の高橋さんの話しの例を取ってね。
ほんなこてそげなおかげを頂くなら、もう枯れ木に花だと周囲の者が言うたけれども、ただ一番初めにお参りさせて頂いた時に先生がおかげになると仰ったから、ね、それこそ泣く泣く、もうおかげに、ただその一言にすがって一生懸命福岡から、当時は単車でしたが、それこそ雨の日であろうが、雪の日で、あの年は非常に雪の多い日でしたが。もう何遍雪の中で倒れ転びしたか分からない。単車でお参りをしてくる。
けどもおかげで、かすり傷一つせずに無事(一年間?)参り続けさせて頂いたころにはです、枯れ木に花と思われよったのが、実が出だしたんですよ。もうそれに勢い得て、一生懸命信心、まぁ満1年間お参りをする頃には、いわば花が咲いて、実が実ったんです。
ね、もうそれこそ有り難うてたまらんそれがね、1年間ね、いわゆる本気で参り続けるということがです、まぁいうならおかげを受けて、それからお礼参りが始まった。あそこにき、高橋さんの信心の、まぁいうなら素晴らしいところがありますね。
おかげを受けた、一生懸命参っておかげを受けたで、このやめる人が多い中にです、これから何ヶ月間はお礼参りとしてお礼参りを続けた。そのお礼参りをしておる、まぁそんなに(まえも?)分かってきたんですけれども、まぁ分かりやすく言うなら、そのお礼参りをする間に信心が分かってきた。
ただこの事をおかげを受けんならんという一念で参った。その間は、もうその一念ですから、いうならば信心が、いうなら分からなかった。もうお礼参りということになってきた頃には、一つのゆとりが出来て信心が本当に、まぁ分かって来たという風な意味合いにお話をしたんですけれどもね。
そして、なら現在のあの信心が続いておる訳です。ね、そりゃとても、いくら神様でんこれだけはおかげ受けられんがと、と言われる時にはほんなこて男泣きに泣いて参ってきた。ただ一番初めに参った時におかげになると仰った、その、そのおかげになるというそのことを、にすがって参って来た。
ね、だからおかげを頂かにゃ、頂くまでは参りぬいた。その事を、この頃もあちらのお母さんが参って見えてからです。もう本当にあの時分の、定利のあの信心ぶりというものにはね、朝もう3時4時頃から起きてくるんです。もう雪の日なんか、今日なんかはもうご無礼したらどうかというけども、いや、というて参る。
もう本当に後ろ姿、私はあの人の後ろ姿を拝みよりましたちゅうて。ね、そういう一心。ね、それをです、おかげ頂ききらんごたるけんでというて、ね、例えば途中で止めとったらどうでしょう。ね、そりゃ(つむ?)雪の日も。それこそ雨の日も参ったばってんおかげ頂ききらんじゃったというておられる。
ね、一心とはね、そういうもんだと。ね、そうして、ならお参りしておる間に、夢の御理解じゃないけれども、お取次を願うて、お取り次ぎを頂いて帰るから。ね、自分の言うことだけじゃない。神様のいうて下さることも聞いて帰るから、そこから本当の信心の、今度は芽が出てきて、ならこりゃ高橋さんの例をとるなら、本当な信心に向かって、まぁ一生懸命あぁして、精進がそのまま続けておられるようにです。
もういよいよ此の方一心であったね。しかも、今日私がいう一心とはね、おかげを頂くまで、お参りをするという、それが一心なんです。勿論、何処に頼む、ここに願うといったようなことは、勿論ない。
今日はそこんところを一つ本当に、えー、皆さん一心とはそういうものだと。ね、そして私は、ここんところは何時も頂く事ですから、ここんところ、今日の36節のここんところに、本当は何処に焦点を置くだろうかと思うてまた、その事御神意をお願いさせて頂いたら、御理解13節のね、「神は向こう倍力の徳を授ける」というところであった。
「神は向こう倍力の徳を授ける」と。ね、ここはもう一心に、すがってね、おかげを受ける世界だけではなくてです、もうそこにはお徳を受ける世界がそこにはある。何十年金光様一本できよります、というてもおかげもよう頂かず、または、お徳もなおさら頂いていないというのがある。だからそれではない。何十年続いておるということじゃない。
ね、此の方一心と定めて、しかも定めて、すがって、しかもおかげ頂くまでは、どんなことでもおかげ頂くまでは、それこそもうそりゃやめときなさい、もう枯れ木に花じゃと。こんな枯れたものに花が咲くもんかと。言われるようなことの中にでも、ね、一心を貫いた。
ね、その間にはです、ね、花さかじいさんじゃないけれども、ね、犬を殺されたり、ね、臼を割られたり、ね、それでもやはり、こう辛抱しぬく一心というものを、その間です、その間。徳を受けるその間にです、ね、もう犬を殺されたから、もう生きる楽しみもない。というのじゃなくて、ね、なおそのうえかつ、その上に松の木を植えた。その松の木が成長した、それで臼を作ったと。
ね、その臼もまた割られた。それでもやはり、それをいわば燃やしては灰にした。ね、私はここんところを、昔頂いた御理解の中から頂くとですね、犬を殺す。そのお参りをしておる間にです、段々我情我欲がなくなって来たち。人間の煩悩的なものがなくなって来たと。犬を殺されて。
ね、臼を割られる。ね、どういうような大事なものを、例えていうならば、自分の半身である家内を取り上げられるような事があっても、ね、それを例えば灰にしていくと。と言う事は、もういよいよ一心にすがって、神様どのようなことになってもあなたのおかげを頂かなければ、あなたのおかげを受けなければ、立ち行かん私です。だから、あなた任せになるより他はありませんという、ハイという素直な心が出来てきた。その頃になってきて。
ね、現在高橋がもう本当に、一時が万事に神様任せであられると言うことは、皆さんもご承知の通りですよね。もうこれはもう、その代りもう神様が、ちっともうせからしかち思いなさりゃせえんじゃろうかち言うぐらいに、もう御神意通りですね、この人は。
先日あの、10日の「えびすさん?」といや、(しゅうまち?)の商店街が潤うというくらいにある。特に食べ物や、お寿司屋さんですから、もう前の晩からずーっと夜通しにあるそうですね。
もう(それた?)あの福岡の、あの箱崎かどこかにある、その「えびすさんす?」が、もう博多中の者が、もうそれこそたまがるほどのお参りがあるです。しかも一晩中続くそうです。
ですからもう夜通しずーっとその、ならもう一年のうちで一番売上の多い日だという事になっております。だからそのことのお願いがあって、材料を買わせてもらうことのお届けがあった。
ね、(つう?)いっぱい材料を仕入れさせて頂いて、十分おかげ頂くようにという事であったから、もう十分材料を仕入れて、ね、まぁその日を待ったわけなんです。
ところが、どうですか、あの(九日からか?)降り出した、あの土砂降りだったでしょう。ですからもう、その、まぁ本当の信心参りじゃないですからね、雨ん降りゃもう参らんのでしょう。ですからもう全然駄目だったんです。
ね、それこそ、まぁいうならね、犬を殺されたようなもの、臼を割られたような感じである。ね、それでも明くる日はどういうことになっておるかというと、本当にめぐりのお取り払いを頂いて有り難いというお礼のお届けがあっとります。
そしたらその翌日です。何でもない日に、もうそれこそ、売れること売れること、その材料を全部使ってしまうほど売れたんですから。もう、もうとにかく枯れ木に花のようなおかげでしょうが。ね、そこにハイという素直な心なんです、問題は。
全然(うそごつ?)ならなかったんです。ね、だから私はね、一心ということはそういうようなことだと思うんですね。ほりゃもう一心におすがりしよったばってん、こげん損した。もう神様もあったもんじゃなかてい。というたら、もうそれでプツッと切れるじゃないですか。
さぁ、明くる日は、例えば平常の日であっても、そういうおかげの受けられる日が、もう次の日にひかえとっても、そういうおかげが受けられんのですわ。
ね、いわゆる、もう徳の世界に一歩踏み入れた形、感じです。ね、打ち向かう、神様に打ち向かうその一心というものがですね、でると、その打ち向かう倍力のおかげを授けて(もらう?)倍力の徳を授けると仰る。これが有り難いでしょう。
ね、本当にそこは降ろうが照ろうが、ね、損しようがもう、そんなことはもう問題じゃない。ただ一心と定めいという事は、そういうこと。草木でも芯というたら一つじゃ、神信心もこの一心を出すと、と仰る。
この一心を出すと、すぐにおかげは受けられる。すぐにおかげを受けておるでしょうが。ね、昨日私は青年会の方達にもいうたように、なら朝参りさえすりゃおかげ頂きますかち。もう絶対ばいち私。
やってごらん。けどもなら、一年なら一年参ったけんおかげ頂ききらじゃったというて、やめたらおかげは受けられんよて。おかげの頂けれるまで、という腹を決めたらおかげが受けられる、て私が。それが一心。
ね、そうしていくうちにです、ならそれだけ言うと簡単のごとあるけれども、そのなら一生懸命参っておる間にはです、臼を割られたり、犬を殺されたりといったようなこともあろうけれども、そこを一心に貫かせて頂くところにです、いよいよよい信心が生まれる。素直な、ハイ、ハイの信心が生まれる。そこに枯れ木に花の咲くようなおかげが受けられるというところは、もうこれはおかげじゃないです、徳です。
ね、打ち向かう倍力の徳。そりゃもう泣く泣くであっても、信心じゃなかったかもしれん。ね、一年間の間は。もうそのおかげ頂くことばっかり考えておるから、他の信心の話しなんか耳に入らなかったかもしれん。けれどもその、その打ち向こうておる心だけは神様は受けてござる。
金光様の信心を何十年続けておる。もう自分方は開式までしとるから、もう金光様一本だ、一心だというだけではね、それだけでも、例えばおかげが受けられましょうけれども、それだけではいけないと。ね、一心といや、一心にすがる、貫くというものが大事。
しかもです、もうあなた一人(よりを?)頼む人はありませんから、どうぞよろしくお願いしますというて、頼んだけじゃなくてね、そこに一心に頼んですがるところのおかげ。
神信心もこの一心をだすと、すぐにおかげが受けられる。もうここにはあの、徳、その一心に定めて、一心にすがっておかげを受けていく、その間に、ただ今私が申しますような、様々な事があっても、普通でいうならもう、そこでもう腰おってしまうようなことが起こってもです、それでもおかげをまではと貫かせて頂く、その一心を出すとすぐにおかげが受けられるというのは、もうすぐにそこの一心を貫くところにです、もう神様は倍力の徳を授けて下さるという感じ。
ね、その徳が、いわば、昨日私、青年会の方達に「超」という事を使って話した。ね、超の付く、まぁお道の信心はね、常識的なもんじゃない。もう超常識だと。ね、道徳的なもんではない。もうその道徳を超えたもの、もういっちょ。超道徳だと。
ね、そこに枯れ木に花の咲くようなおかげが受けられるんだという話しを、させて頂いたんですけれどもね。何故そういうような、私が難しい話しをしたかというとですね。昨日私は、その青年会の方達にどういうことを話そうかと。
青年会が、先生今日講話を頂きます、その講題ですね。どういうことをテーマにして話て頂くでしょうか。さぁそげなこついうたっちゃ私は分からんよっち。説教台の前に立ってからでなからにゃ分からんち私がいう。
(あん、いやそれなら?)それで結構でございますと。ね、というて私がご神前にでらせて頂いてから、頂いたんです、頂いたんですから、まぁそれを一つのテーマにして話したわけですけれども、その講題をというならこういうものでした。ね、この世で通用することでもね、必ずしもあの世で通用するということはない。いやむしろこの世で通用するものが、あの世では通用しないのだと。
信心させて頂くなら、もうあの世この世を通しておかげを頂かなければならんという事を教祖は説いておられるのであるから、ね、あの世で通用することなら、あの世で通用するものならば、この世で通用するんだと。
教祖はね、もうあの世この世を通して通用する道を教えられた。その道は、どういうことかというと、ね、ただ常識的な信心じゃつまらん。超常識的な、例えばこういうお話があるというて、様々な例を、久富繁雄さんのいう、あの豚の話しやらね。まぁさせてもらったんです。
ね、もう常識では考えられないということ。ね。そういう例えばおかげを頂いていくことの為にね、神様へ打ち向かわせて頂けば、ね、その倍力の徳を神授けると仰る。ね、その徳を受けていくまでの一つの過程にはです、ね、おかげを頂くまで、頂きぬくまでは、というようなところにその一心があり、そこにおかげがある。
ね、その一心を出すとすぐにおかげが受けられる。もうそこには、徳の世界がある。ね、倍力の徳を受けておるという感じ。ね、そこから、頂けれるもの。そこからいよいよ今度は頂くもの。なら、高橋さんがそのようなおかげを受けられて、その後においての信心。
ね、いわば皆さんもご承知のように、いわば九大を卒業して、(法学氏?)にまでなられた方。それが神様が寿司屋がよいぞと仰ったら、その(法学氏?)というものをストッとや、もう思いを断念して、そして、寿司屋になろうと決心した人ですから、ね。
それこそ、まぁお父さんが折角大学出したのに、がっかりしなさったじゃろうと思うくらいだったですけれどもです。ね、そこから、私は徳の世界が開けてくる。ね。
いわば信心に(よう?)と申しますかね、信心のいわゆる有り難き、勿体無き、恐れ多きという、信心に(よう?)いわば、いうような信心がその後に、その後の信心に現れて来たと、まぁ高橋さんの例でいうなら。ね、いうならお参りが楽しゅうなってきた。
もうとても遠いとか近いじゃないですよね。まぁ今日、今朝は見えとらんけども参っておる人、参ってきますよ。ね、そすと今夜、また今夜は必ず出てきますよ。菊栄会ですから。2編でも3編でも御用さえありゃ出てくるです。
ね、これはもう信心に(ようて?)おらなければ出来るこっちゃないです。ね、そこに私はお徳を受けさせてもらう、いわば道がある。そういうお徳を受けさせて頂いて、初めてです、ね、あの世この世を通して通用する道というのは、そこから頂けてくるのです。
ね、普通からいうたら、ね、はー朝参ってから、昼も参る。ある御用があるから。また帰っとってから、今夜は菊栄会じゃからというて、いうなら参って来る。とても普通ではないけれども、やはり超の字が付くようなおかげ。いうなら、徳を受けるためには、そこんところが、しかも有り難く、徳を受けるためじゃない、それがもう当たり前の事のようにして出来ておるという信心。そういうおかげを頂かなければ、ね、そういうおかげを頂かせて頂く為にお互いは信心の稽古をさせて頂いておる。
すぐにおかげが受けられるというような徳を受けたい。そういう生き方を私はあの世この世を通して、通用する道。この世では通用してもあの世では通用しない事が多い。ね、あの世で通用するものならば、ね、この世で通用しない事はない。
そこで教祖様は、あの世でもこの世でも通用する道を教えて下さった。そして、例えばこのような表現で、今日は教えておられるわけでございます。
ね、「日本国中の神、あらゆる神を皆信心するというが、それはあまりもの、あまりの信心じゃ。人にものを頼むにも一人に任せ、任すとその人が力をいれて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば相談にくれて物事はかどらず。大工をやとうても棟梁がなければならん。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すとすぐにおかげが受けられる」とこう、ね。
だから、これはただあっちに頼んだりこっちに頼んだりしたり、したんじゃおかげは受けられないというような風に軽く頂くところでございますけれども。それが、ね、すぐにおかげが受けられるといったような一心。
それはおかげを頂くまでは、頂きぬく。頂くまでは、どういう障害があってもお参りし続けると。こういう私は一心を本当の一心だと今日いう風に今日は聞いてもらった。ね、そりゃ参ったばってんおかげ頂ききらんじゃったと。というようなのは一心じゃない。ね、頂きぬくまで参るというのが一心。その腹を決めるという事が一心。という風に今日はこの、ただおかげが受けられるという世界から、ね、神は向こう倍力の徳を授けると仰る、徳を授けられる意味合いにおいての、この36節を聞いて頂いたわけですね。どうぞ。
梶原 佳行